西郷どん1話から最終回までのあらすじネタバレ

2018年1月から放送予定の「西郷(せご)どん」の1話から最終回までのあらすじネタバレを予想します。現時点では放送はまだなので、史実をまとめたものとなっています。大河ドラマでは、西郷を取り巻く人間模様が描かれると思いますが、そこは脚本によるところが大きいです。

西郷どんキャスト

鈴木亮平北川景子高梨臨、北村有起哉、高橋光臣、堀井新太、沢村一樹、斉藤由貴、小柳ルミ子、鹿賀丈史、瑛太、黒木華、桜庭ななみ、渡部豪太、塚地武雅、風間杜夫、平田満、松坂慶子

西郷どん製作スタッフ

原作:林真理子『西郷どん!』
脚本:中園ミホ
音楽:富貴晴美
演出:野田雄介、梶原登城、盆子原誠
プロデューサー:櫻井賢(制作統括)、小西千栄子

このあらすじネタバレでは1話から最終回までを予想していますが、西郷どんの最期まで分かってしまうので、ネタバレが嫌いな方は最後まで読まないでくださいね。

放送は2018年1月7日からで、全50話、最終回は12月16日の予定です。

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西郷どんあらすじネタバレ

貧しい7人兄弟の長男として生まれる

江戸幕府の土台がゆらぎ始め、西洋の列強国が日本に姿を現すようになり、幕末動乱の兆しが見え始めたころ、貧しい下級武士の7人兄弟の長男として文政10年(1827)に西郷吉之介(隆盛)は生まれた。18歳になると薩摩藩の迫田太次右衛門利済(さこただじうえもん としなり)に仕える。

お由羅騒動が起こる

西郷が22歳のときに、薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の後継者問題を巡って、正妻の子の島津斉彬(なりあきら)と側室の子の島津久光(ひさみつ)の対立が起こり、西郷の知古である赤山靱負(あかやまゆきえ)の死に直面する。世にいう「お由羅騒動」である。

江戸で島津斉彬の庭方に任命

お由羅騒動が治まって島津斉彬が薩摩藩主となった2年後の嘉永6年(1853)に、ペリーの黒船が浦賀に来航する。翌年江戸幕府は、日米和親条約を結ぶ。ペリー来航の前年にスガと結婚した西郷だが、同年に祖父、父、母を失い、長男だった西郷が家督を継ぐ。安政元年(1854)に、西郷は島津斉彬の参勤に伴って、江戸を上ることなり、江戸で斉彬の庭方役(秘書)に任命される。

西郷がお由羅暗殺を計画

西郷は江戸で水戸学の大家、藤田東湖と出会い師と仰ぐが、藤田東湖は安政2年(1855)の江戸の大地震で家屋の下敷きになって圧死してしまう。島津家の騒動で、西郷がお由羅の暗殺を計画するが、斉彬によってやめさせられる。島津家の騒動は、斉彬が久光の子を養子に迎えることで決着した。

西郷は離婚

江戸で国事に奔走する西郷は、家庭を省みることができずに、わずか1年足らずでスガと離婚する。安政3年(1856)に、島津家の篤姫(あつひめ)が徳川家定に嫁ぐ。将軍となった家定だが、病弱だったためにすぐに後継者問題が持ち上がった。一橋慶喜を推す一橋派と、徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派が対立し、島津斉彬は一橋慶喜の擁立を西郷に任せた。このときに西郷は僧侶の月照と出会い、慕うようになる。

井伊直弼が通商条約を強行

開国を迫られていた幕府は、南紀派の代表の井伊直弼(なおすけ)が孝明天皇の許可を得ないまま、日米通商条約を強行し、次期将軍を南紀派の慶福に定める。

島津斉彬が病死

江戸幕府の大老となった井伊直弼は、一橋派を弾圧し始めた。反対派の島津斉彬や西郷は兵を率いて京へ上る予定だったが、その途中で島津斉彬が病死してしまう。ショックのあまり西郷は、入水自殺しようとするが、月照に説得されて一命を取り留めた。

井伊直弼の弾圧を逃れるが、離島送りに

井伊直弼は「安政の大獄」で、反対派の100名あまりに死罪、隠居、罷免などの処分を下した。月照にも身の危険が迫りつつあったために薩摩へ逃れるが、薩摩藩は後難を恐れて月照殺害を企てる。月照を日向に移送する途中、全てに絶望した西郷は月照と船から入水自殺を図る。月照は絶命し、生き残った西郷は死んだことになり、薩摩藩から奄美大島へ島送りにされる。

奄美大島で再婚

再び薩摩藩に復帰したが、島津久光に背いて今度は沖永良部島に配流される。2度の島送りは安政6年(1859)から5年間にも及んだ。西郷は奄美大島にいる間に、愛加那と結婚し、1男1女を設けた。

西郷が奄美大島にいる頃、井伊直弼の厳しい弾圧に怒った水戸藩の脱藩者が、安政7年に桜田門で井伊直弼を襲撃する。これが「桜田門外の変」である。

薩摩へ復帰も徳之島へ流罪に

「桜田門外の変」で幕府の権威が失墜したときに、島津久光は薩摩から出兵する計画を立てる。中央政界に顔の効く西郷が、沖永良部島から薩摩へ呼び戻されるが、西郷は島津久光の計画に反対する。

卒兵上洛は実行されたが、島津久光に反対した西郷は、今度は徳之島に流罪になる。

薩摩藩が2つの大事件を起す

薩摩から京へ上った薩摩藩は内輪もめを起こし、死傷者の出る「寺田屋騒動」を起す。さらに、江戸で一橋慶喜を将軍の後見にした島津久光は薩摩へ戻る途中に、騎馬のイギリス兵が行列を乱したとしてイギリス人一人を殺してしまう。世にいう文久2年(1862)の「生麦事件」である。

西郷は沖永良部島へ遠島

徳之島で処分を待っていた西郷は、家族との再会を果たしたのもつかの間で、今度は沖永良部島へ遠島になる。格子だけの牢屋で野ざらしという過酷な環境のもと、西郷はみるみるうちに痩せて行った。

その頃、天皇を尊ぶ尊皇攘夷派(そんのうじょういは)、三条実美(さんじょうさねとみ)らが実権を握り、江戸幕府の徳川家茂に尊皇攘夷を実行することを約束させる。

薩英戦争勃発

イギリスの生麦事件の犯人処刑と賠償金の要求に対して薩摩藩ははぐらかしを続けた。交渉中にイギリスが錦絵湾に艦艇を7隻停泊させたこところ薩摩藩が攻撃し、薩英戦争が勃発した。しかし、イギリスが圧倒的な軍事力で反撃し、戦いは3日間で終わり、薩摩藩はイギリスを和平を結ぶことになる。薩英戦争のことは西郷にも届いていたが、戦争が終わってイギリスが引き上げたことから、西郷は沖永良部島からの脱走を思いとどまる。

西郷が藩政に復帰

尊皇攘夷を求める長州藩に対抗するために、薩摩藩は会津藩と手を結んで開国を実現しようとしていた。そこで元治元年(1864)に、西郷の帰藩が決定する。沖永良部島を出た西郷は、奄美大島に立ち寄り妻子と時を過ごすが、愛加那と会ったのはいとここれが最後となった。

同年、「池田屋事件」で弾圧を受けた長州藩が見返りに「禁門の変」を起こして反撃しようとするが、西郷が鎮圧を図った。西郷は長州藩の征伐に乗り気だったが、江戸幕府の腐敗ぶりを勝海舟から聞いて失望する。そして、坂本龍馬中岡慎太郎と交流するうちに、倒幕を考えるようになる。

薩摩藩と会津藩が尊皇攘夷派を一掃

急進的に尊皇攘夷を進めようとする長州藩に対して、薩摩藩と会津藩は孝明天皇を説得してクーデターを起こし、尊皇攘夷派の三条実美らを京から追放する。これが「八月十八日の政変」である。

坂本龍馬が西郷の同志となる

坂本龍馬は、神戸海軍操練所の塾頭を務めていたが、塾生が池田屋事件や禁門の変に関係していたことから操練所は廃止され、坂本龍馬と塾生は行き場を失う。海軍力の立て直しを図っていた薩摩藩は、坂本龍馬と塾生30名の受け入れを決定する。

西郷が三度目の結婚

慶応元年(1865)、第一次長州征伐が終わった西郷は、任務を解かれ小倉から鹿児島に戻り、周囲の勧めで糸子(イト)と三度目の結婚をする。そしてこれが最後の妻であった。

坂本龍馬が薩摩藩と長州藩の和解を取り持つ

第一次長州征伐で幕府が強い処分を課そうとしていたが、薩摩藩は朝廷に働きかけてこれを阻止した。こうして幕府と薩摩藩の溝はどんどん深まっていたが、薩摩藩は朝廷の敵となっていた長州藩と手を結ぼうとする。その間を取り持ったのが坂本龍馬と中岡慎太郎である。

第二次長州征伐が始まる

しかし、長州藩の制裁を諦めきれない江戸幕府は、慶応2年(1866)に10万人の兵士を送り込んで第二次長州征伐を開始する。このとき薩摩藩は長州藩と密約を結んでいて、兵を出さなかった。薩摩藩や坂本龍馬が結成した亀山社中と言う組織から援助を受けていた長州藩は、最新鋭の武器で幕府軍を撃破し、翌年に終戦を迎えた。

四侯会議が失敗に終わる

第二次長州征伐のときに徳川家茂は急死し、徳川慶喜が将軍となる。それから20日後に孝明天皇が急死する。この機会に幕府より優位に立とうとする薩摩藩は、四侯会議を開くが何も決まることなく決裂する。

土佐藩との同盟と解消

薩長同盟の立役者の一人、中岡慎太郎は武力で倒幕を計画していたが、土佐藩も味方に引き入れることに成功する。慶応3年(1867)1,000人の兵を率いて大阪に到着していた薩摩藩は武力で倒幕しようとしていたが、土佐藩が江戸幕府の政権を天皇に返上する大政奉還を提案したために、薩摩藩とと薩摩藩の同盟は解消する。

これに対し再度武力で討幕しようとしていた薩摩藩の西郷や大久保利通らは、長州藩の木戸孝允広沢真臣らと「討幕の密勅」を交わした。

徳川慶喜が政権を天皇に返上

ところが、徳川慶喜は慶応3年10月14日に大政奉還によって政権を天皇に返したため、薩長同盟は討幕の理由を失ってしまうしかし、徳川慶喜は大政奉還後も実権を握り続けた。

坂本龍馬が暗殺される

同年11月13日には、京の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が、何者かによって暗殺された。

討幕派が実権を握る

大政奉還後、徳川慶喜の勢力を阻止するために、薩摩藩、長州藩、芸州藩は朝廷から德川派を一掃した。そして、「王政復古の大号令」により西郷らの討幕派が新体制を発足し、実権を握ることに成功する。

鳥羽伏見の戦いで新政府軍が圧勝

だが、徳川慶喜の支配下にある幕軍が薩摩藩の挑発に乗り、鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰(ぼしん)戦争へと発展する。旧幕府軍の15,000人に対して薩摩藩、長州藩の新政府軍は5,000人だったが数日で、新政府軍が圧勝した。徳川慶喜は大坂城から江戸へと退去した。

江戸城無血開城から五稜郭の戦いへ

新政府軍は次に江戸へ進撃を進めたが、徳川慶喜が篤姫を通して命乞いをし、戦いは免れて江戸城無血開城となった。しかし、まだ新政府軍と敵対関係にあった北陸、東北の諸藩も、戦いの末新政府軍が支配下に治めた。

戊辰戦争が終結

追い詰められた旧幕府軍は、蝦夷(北海道)にまで逃げたが、明治元年(1868)に五稜郭へ入城し、箱館で政権を樹立する。これに対して新政府軍は明治2年に進軍を開始し、「五稜郭の戦い」が始まった。ここでも旧幕府軍は劣勢で、新政府軍に対して無条件降伏を決定し、戊辰戦争は終結した。

廃藩置県を断行

戊辰戦争が終わって、新政府の大久保利通(おおくぼとしみち)は、西郷の力を借りて廃藩置県を断行した。新政府の岩倉具視(いわくらともみ)は、8か月間も政府首脳らと共に欧米の視察に出てしまったことから、内政が停滞することになってしまった。

徴兵制が施行、西郷は陸軍大将となる

新政府は戊辰戦争などの戦費がかさみ財政難となっていたが、徴兵制の問題もあった。士族を軍隊にする士族軍隊派と一般国民を徴兵する平民軍隊派が対立したが、西郷がこれを鎮めた。

最終的に西郷は平民軍隊派を支持し、徴兵制が施行されて国民軍が創設された。西郷は陸軍元帥を経て陸軍大将となった。

新政府に失望した西郷は帰鹿

朝鮮との国交を回復しようとしていた新政府は、西郷を大使として朝鮮に派遣しようとしていたが、岩倉具視らの外遊組が帰国すると、西郷の案に反対した。この結果を踏まえて、西郷と薩摩人らは鹿児島へと大挙引き上げた。

私学校を設立するが暴発、西南戦争へ

引き上げた中には士族もいたが、鹿児島で暇を持て余していたために、隠居生活を送っていた西郷に、渋谷精一らが「私学校」の開校を要請した。明治10年(1877)私学校の偵察を進める政府と私学校の生徒達が対立し、薩摩軍が出兵することになった。

薩摩軍は熊本城を包囲したが、その他の方面で政府軍が勝利し、最終的に熊本城の包囲は敗れてしまう。人吉で抗戦を続けた薩摩軍だが、政府軍に攻め込まれるとあっと言う間に陥落してしまう。

西郷の最期

人吉から宮崎を経て、鹿児島へとやっとの思いで帰還した西郷とわずかな兵は、私学校を占拠する。明治10年9月24日、城山の洞窟にこもっていた西郷と40名あまりの将士は、政府軍に包囲される。股と腹に被弾した西郷は切腹し、残った者も戦死して西南戦争は終わった。

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まとめ

いかがでしたでしょうか。新政府樹立に向けて奔走した西郷ですが、私学校の設立をきっかけとして、最期は政府軍と戦ってしまいます。なんとも理不尽な結末になってしまいましたが、一時代を築いた功績は大きく、明治22年に罪が放免されて正三位を追贈されています。

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参考